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桐花大綬章受章にあたって
このたび、桐花大綬章を受章いたしました。
これは大変な栄誉であり、また、私個人への栄誉ではなく、戦後80年、市民政治を実現しようと奮闘、努力してきた、すべての市民のみなさんの栄誉であり、私はその代表としていただくのだと考えています。
「市民政治」とは、市民が自分たちの代表を選挙で議会に送ることであり、市長や知事を自分たちで選ぶことです。国政も、市民が国会議員を選び、その国会議員の中から、国会議員が投票して総理大臣を選ぶわけですから、市民政治が可能です。
戦前の参政権は制限があったうえに、選挙で選ばれるのは議員だけでした。総理大臣や大臣は官僚や軍人が大半で、民間出身者はごく少数でした。国民が直接選んでいない人たちによって、国政も地方行政も担われていました。
戦後も国政では、官僚出身者や世襲の政治家が大半です。そのなかで、政治家の子として生まれたわけではなく、官僚出身でもない、文字通り、一般市民である私が、44年にわたり、国会で働くことができ、総理大臣として国の舵取りをすることができたのは、民主主義の社会になったからです。
その意味で、これは戦後の市民政治への勲章だと、私なりに解釈しております。
ご支援いただいた方、ともに市民政治実現に奮闘してきた仲間、政権運営をともにした政治家、官僚、ご助言いただいた学者やジャーナリストをはじめ、すべての方に感謝いたします。
【政治家になるまで】
私は少年時代から理科や数学が好きでしたが、一方で、政治にも関心を抱いていました。そのひとつのきっかけは、オルダス・ハクスリーのSF『すばらしい新世界』を読んだことです。機械文明が発達した未来社会で人間が尊厳を見失っていくという話で、科学技術の道へ進もうと思っていた私は、科学技術が必ずしも人間に幸福をもたらさないことを知りました。その、科学技術がもたらした最大の不幸が核兵器です。
それから、政治の役割は「最小不幸社会」の実現だと考えるようになりました。
学生時代は、ちょうど大学紛争の時期でもあったので、私も東工大で、既存のセクトではなく、仲間たちと「全学改革推進会議」を立ち上げて活動しました。これが、私が直接政治的な運動をした最初となります。
大学卒業後は、特許事務所で働きながら、土地問題などの市民運動に携わっていました。その延長で、市川房枝さんの1974年の参議院選挙に関わるようになったのが、国政との最初の関わりです。
1976年、ロッキード事件が起き、政治があまりにも市民感覚とずれていることに憤りました。しかし、怒っているだけでは世の中は変わりません。そこで、国会に仲間を送ろうとなり、私自身が無所属で立候補することになりました。
この選挙を含め3回落選しましたが、その間に江田三郎さんと出会い、社会市民連合を立ち上げ、これが社会民主連合(社民連)へと発展しました。
【政治家になってから】
3回の落選の後、1980年の衆参ダブル選挙で衆議院議員に初当選しました。以後、14回連続当選を果たし、44年間、国会で活動することができました。そのうち与党だったのは6年となります。
初当選当時は、国会議員が最大でも衆参で5人しかいないミニ政党でしたが、薬事行政の不透明さを追及するなどの活動をしました。また、バブル時代には地価の高騰を抑えるための政策立案にも取り組みました。
時代が平成になると、リクルート事件をきっかけとした政界再編の動きが起き、私は新党さきがけに参加しました。
【厚生大臣として】
さきがけは、自民党・社会党と連立政権を組み、1996年、私は橋本内閣で厚生大臣に就任しました。当時の厚生行政で最大の問題が、裁判になっていた薬害エイズ事件でした。厚生省に責任があることは明らかでしたが、証拠がないと認めようとしません。私が厚生省内に調査チームを作り、資料を探すよう指示すると、いままで「ありません」と言っていた資料が発見され、厚生省に責任があることが明白になりました。これを受けて、被害者の方々に大臣として謝罪し、裁判では和解できました。
官僚出身ではなく、製薬会社とも何のしがらみもない、市民運動出身の政治家だからこそ、できたことだと自負しております。
厚生大臣時代に取り組んだことでは、介護保険制度の制定もあります。法案の作成まではできたのですが、連立を組む自民党内に根強い反対があり、調整に時間がかかり、大臣在任中には国会へ法案として提出できませんでしたが、その後、法律が国会へ提出されて成立し、高齢社会に不可欠の制度として定着したのは、ご存知のとおりです。
【内閣総理大臣として】
厚生大臣在任中の1996年秋に民主党を結党し、代表に就任しました。
その後も政界再編の動きは続きましたが、そのなかで民主党は着実に大きくなっていきました。2005年の郵政選挙では大きく後退しましたが、2009年、ついに政権交代を成し遂げ、鳩山内閣が誕生し、私は副総理として入閣しました。
そして2010年6月、内閣総理大臣に就任しました。
総理在任中に、戦後の災害のなかでも最大級の東日本大震災という、まさに国難に見舞われました。地震と津波による甚大な被害に加え、東京電力福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こすという、史上最大最悪の原子力災害が起きました。最悪の場合、首都圏も放射能に汚染され、約5000万人が避難しなければならなかった、想像を絶する被害が想定されました。私は小松左京氏のSF『日本沈没』を思い出しました。
東京電力、自衛隊、消防、警察のみなさんがたの決死の作業もありましたが、その後のさまざまな検証でも、日本が助かったのは「偶然」が重なった「奇跡」であることは明らかとなっています。
もし、奇跡がなかったら、東京を含む東日本は何十年にもわたり人が住めなくなり、日本経済は立ち行かなくなるところでした。私は「神のご加護」があったと思っています。
原発事故は、他の火災や爆発事故とは異なり、いったん、起きてしまえば、国を滅ぼすということを、私は実感し、脱原発依存社会へと政策を転換しました。
【若い人たちへ】
地球温暖化という全地球的な課題に加え、各地での戦争も続いています。トランプ政権の関税をきっかけに世界は経済も混迷しています。日本はとくに少子化、人口減、高齢化という問題も抱えています。政局も不安定です。
こういう時代こそ、自分でテーマを見つけていくことが政治家には問われていると思います。
市民運動が政党と異なるのは、テーマ型だということです。あるテーマに賛同する人たちが集まって運動し、解決すれば解散する。そしてまた新たな問題が起きれば、集まります。
政党は組織の維持と拡大が目的となってしまいます。それを全面的に否定するわけではありませんが、組織の維持と拡大にばかり夢中になっている政治家が野党にも見受けられるのは残念です。
私は政党に属していましたが、常に、「これはおかしい」と感じれば、その原因を調べ、改善する方策を考え、政策として立案してくという、テーマ型の政治活動をしてきました。総理大臣時代も、原発事故というテーマにぶつかると、原発なしでも電力を得るにはどうしたらいいかを調べ、研究しました。退任後も、原発ゼロというテーマで活動し、それを可能とする科学的方法を考え、また法案も作りました。
国会議員だけでなく、市区町村議会や都道府県議会の議員、首長など、政治家を志す人は、自分のテーマを持って活動してほしい。
私のこれまでの活動が、市民政治を志す若いひとたちにとって、ひとつのモデルとなれば嬉しく、それこそが栄誉だと思います。
2025(令和7)年4月29日
菅 直人
<参考資料>『市民政治50年』(筑摩書房)
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