・政権交代、その日に調査を指示した岡田大臣
「政権交代のある政治」の意義は多々ありますが、その最大のものが「前政権がしてきたことの見直しができる」ことです。どの組織でも、前任者の批判はやりにくいものです。官僚の世界は特にそれが徹底していて、かつての上司が決めた政策を見直すことも、あまりありません。だから、大きな政策の見直しには政治家が役割を果たすことが必要なのですが、政治家の方も自民党政権が長く続いてきたので、徹底的な見直しをやりにくい状況が、長い間続いてきたのです。

政権交代をきっかけに、私たちはまず、それまでの自民党政権のもとで、役所が長年にわたって隠してきたことを明らかにすることに取り組みました。その象徴が外務省の「密約」問題です。「密約」問題とは1972年の沖縄返還をめぐり、沖縄への核の持ち込みや返還費用の肩代わりなどについて、日米両国の間で「密約」が交わされたのではないか、というものです。戦後日本の国是と言える「非核三原則」との整合性が問われる問題でもあり、これまでにも国会で何度となく取り上げられてきましたが、政府は密約の存在を一貫して否定し続けていました。

民主党に政権が交代し、鳩山政権が発足した2009年9月16日。岡田克也外務大臣は就任したその日のうちに、薮中三十二(みとじ)外務事務次官に対し、全部で四つの「密約」について省内の資料を調査するよう、大臣命令を出しました。
岡田大臣の命令書には、冒頭こう書かれていました。

外交は国民の理解と信頼なくして成り立たない。しかるに、いわゆる「密約」の問題は、外交に対する国民の不信感を高めている。今回の政権交代を機に、「密約」をめぐる過去の事実を徹底的に明らかにし、国民の理解と信頼に基づく外交を実現する必要がある。

外交にかかわらず、政治全般について大切な姿勢だと思います。
さて、岡田大臣の命令を受け、外務省は9月25日に省内に調査チームを立ち上げました。調査対象は日米安保関係のファイル2,694冊、沖縄返還関係のファイル571冊、アメリカの日本大使館に存在するファイル約400冊にのぼりました。11月に省内の調査結果がまとまると、岡田大臣は日米安保や外交文書に詳しい6人の研究者による有識者委員会をつくり、資料の精査や関係者からの聞き取り調査にあたってもらいました。その結果「密約」を裏付ける複数の極秘文書が見つかったのです。

翌2010年3月9日、岡田大臣は外務省の調査結果と、有識者委員会の検証報告書の両方を公表しました。有識者委員会は、調査した四つの密約のうち「日米安保条約改定時の核持ち込み」「米軍基地跡地の原状回復補償費肩代わり」について「広義の密約があった」と指摘。「朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動」については明確に密約を認めました。残る「沖縄返還時の核再持ち込み」については「必ずしも密約とは言えない」と結論づけましたが、岡田大臣はこの後、6月4日の記者会見で、核持ち込みの密約にかかわる外交文書について「不用意な破棄が行われ、重要文書が失われた可能性は排除できない」という省内調査の結果を公表しました。

残念ながら密約のすべてを明らかにすることはできませんでしたが、それでもこの調査は、別の意味で大きな成果を残しました。外務省は2010年5月、作成から30年を経過した外交文書について、原則として自動公開する規則をつくりました。
民主党政権の密約調査は、外務省の情報公開の姿勢に大きな影響を与えたのです。

・財務省にもあった密約調査
「沖縄返還をめぐる密約」というと、外務省の話だと思われがちですが、実はこの問題には、財務省も深く関わっていました。民主党政権では財務省でも、密約調査に積極的にかかわりました。

財務省には、沖縄返還に伴う経済・財政上の処理を進めるため、日米財務当局が合意した文書がありました。沖縄返還協定で定められた対米補償費は3億2000万ドルとなっていましたが、この協定とは別に、米国の銀行への無利子預金などの形で日本側が巨額の財政負担を行う密約が交わされていたのではないか、というものでした。文書は交渉当事者の名をとって「柏木-ジューリック文書」と呼ばれていました。

鳩山政権の発足時、最初に財務大臣に就任したのは藤井裕久さんでした。藤井大臣は2009年12月4日の記者会見で、密約にかかわる財務省の関連文書について「外務省がいろんな努力をするのと同じような努力は致してまいりたい」と述べ、外務省に協力する考えを示しました。藤井大臣は残念ながら、この1カ月後に体調不良で大臣を辞任され、その後任として私が副総理兼任で就任することになりました。もちろん、密約調査もしっかりと引き継ぎました。

藤井大臣と私からそれぞれ徹底した調査を指示しましたが、結局、財務省内から文書を見つけることできませんでした。しかし、米国の国立公文書館で文書を入手し、これを詳しく調べた結果、日本政府は1999年までの27年間、ニューヨーク連邦準備銀行に、少なくとも5300万ドルを無利子で預金していたことが確認できました。日銀も約5000万ドルを預金していました。

これらを踏まえて私は、岡田大臣が報告書を公表した3日後の2010年3月12日、財務省としての調査結果を公表しました。沖縄返還協定にとどまらない財政負担など「広義の密約があった」と認めました。この時に公表した財務大臣談話は、新著「民主党政権 未完の日本改革」に全文を掲載しています。ご興味のある方はぜひそちらでお読みいただければと思いますが、ここでは結語のみをご紹介したいと思います。

「外交にせよ、通貨交渉にせよ、相手との合意内容を国民に対して明らかにすればかえって国益を損なうようなケースはあると思う。そうした苦渋の判断を、今を生きる私たちが振り返り、簡単に批判することは出来ない。
しかしながら、相手との合意が、その政策的役割を終えた後には、そうした歴史事実が存在したことを国民は知る権利がある。政府の行った重要な判断や措置について、適切な時期が来れば公開する、といったルールを整備していくことが、急務であると感じている」

・密約調査の原点「薬害エイズ問題」
密約調査の意義は言うまでもなく、過去の政権がしてきたことの検証です。そしてその原点は、やや手前味噌になりますが、今から25年前の1996年、当時厚生大臣だった私が取り組んだ「薬害エイズ問題」にあります。

当時は自民党の橋本龍太郎政権。私が所属していた「新党さきがけ」は自民党、社会党と連立を組んでおり、私は厚生大臣として入閣していました。私は入閣の前から取り組んでいた薬害エイズ問題に、大臣として取り組むことになったのです。

薬害エイズ問題とは、厚生省(現在の厚生労働省)が承認した非加熱の血液製剤にHIV(いわゆるエイズウイルス)が混入し、これを血友病患者に投与したことで、多数のHIV感染者やエイズ患者を生んでしまった問題です。非加熱製剤の危険性を厚生省が認識していたことを示すファイルの存在が、メディアの報道などによって示されていましたが、厚生省はこの存在を認めていませんでした。

私は大臣に就任すると、省内にプロジェクトチームを作り、ファイルを探すよう指示しました。厚生省の官僚からは「大臣から指示を受けたのは初めてです」と驚かれましたが、チームを作った数日後には、問題のファイルが省内のロッカーの中から発見されたのです。付け加えますが、この問題で調査や患者救済のため大車輪で働いてくれたのが、当時さきがけの新人議員だった枝野幸男さん(立憲民主党代表)でありました。

きっとそれまでの自民党の大臣は「ファイルはありません」という官僚の言うがままに動いていたのでしょう。しかし、政治がリーダーシップを持って官僚に指示をすれば、官僚はしっかりと動き、結果を出してくれるのです。

薬害エイズ問題への取り組みと、それに対する国民の皆さんからの高い評価は、私たちに「情報公開の重要性」を強く認識させることとなりました。それは、その年の秋に私や枝野さんが参加して結党した旧民主党、そして現在の立憲民主党まで、私たちの中にしっかりと息づいています。

一方、民主党政権が下野したあとの安倍・菅(すが)政権はどうでしょう。外交どころか国内問題についても、外部から検証されることを極度に嫌っています。森友学園問題で財務省の決裁文書が改ざんされ、上司に改ざんを指示された近畿財務局職員の赤木俊夫さんが自らの命を絶つという痛ましい事件が起きました。改ざんの経緯をまとめた「赤木ファイル」を、財務省は長くその存在さえ明らかにしようとしませんでした。総理主催の「桜を見る会」についても、野党議員が資料要求した直後に、その資料をシュレッダーで廃棄したこともありました。

こんなことを許すわけにはいきません。枝野代表は最近のインタビューで、こんな風に話しています。「(政権をとったら)安倍政権、菅政権で隠されてきたこと、改ざんされたことをすべてオープンにする。『モリ・カケ・サクラ』からオリンピックの経費まで、すべて公開させる。これを政権公約の大きな柱の一つにします。それこそ森友学園の敷地、あそこをショベルで掘り起こすまでやるんだという声も上がっています。私もそれぐらいの気持ちです」

私も全く同じ気持ちです。同じ政党による政権が長く続けば、前の政権が行ったことを批判的な視点で検証するのは、とても難しくなります。でも、政権交代が一定の期間で普通に起きる政治になれば「自分たちの政治判断は遠くない将来に検証される」という緊張感が、政権の側に生まれます。この一点だけでも「政権交代のある政治」には大きな意味があることを、ぜひ知っていただけたらと思います。

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