民主党政権で最も成果を上げることができたのが「子ども手当」「高校教育無償化」と子育て・教育分野です。これらの制度によって助けられたという国民の皆さんの声を、私たちはたくさん聴いています。一方でこれらの政策は、当時野党だった自民党などから「バラマキだ」という大きな批判を受けることになりました。

子ども手当や高校教育無償化の理念と、それに対する批判は、同時に現在の立憲民主党が目指す社会と、自民党が目指す社会の違いを示している面があります。この点が意外に伝わっていないように思うので、ここでは子ども手当を例に、少し説明したいと思います。

民主党の子ども手当は「15歳(中学校修了)までのすべての子を対象として、月額2万6,000円を支給する」というものでした(初年度は半額の月額1万3,000円)。しかし、この制度の最大のポイントは、その金額ではありません。「所得制限を設けず、すべての子どもに一律に支給する」というところにあったのです。政権交代前にあった「児童手当」の制度では、支給される世帯に所得制限がありました。でも、一人一人の子どもにとって、親の経済状況は関係ありません。親の収入にかかわらず、すべての子どもに手当を支給する。その代わり、高所得者からは税金などほかの方法で「取り戻す」--。これが子ども手当の仕組みでした。

一方、自民党は「バラマキ」と同時に「『自助』の考えが欠如している」と批判しました。こうした批判は「なぜ金持ちにも支援するのか」という国民感情と結びつき、民主党政権に厳しい目を向ける人たちもありました。両党の間には、子育て政策をめぐる根本的な対立軸があります。自民党は「子どもはそれぞれの家庭で育てるのが当たり前」という価値観で政策を組み立てています。だから、子ども手当のような政策は「家庭における子育てを軽視している」として批判するのです。

一方、民主党は「子どもは社会全体で育てる」という考えに立っています。子育てや教育の責任をすべて家庭に押しつけてしまえば、例えば所得の高い家の子どもが十分な教育を受けられる一方、所得の低い家の子どもはまともに教育を受けられない、といったことが生じかねません。政治の力でこうした格差が生じるのを防ぐ、そのためのさまざまな施策の一つが「子ども手当」だったわけです。立憲民主党も、子育て政策については、基本的に民主党政権の理念を受け継いでいます。

長く続いた自民党政治のなかで「子どもは家庭が責任を持って育てる」価値観は、国民の皆さんの間にもかなり浸透しているように見えます。だから自民党政権は、例えば大学入学共通テストの英語民間試験の導入をめぐり、家庭の経済状況などで試験を受けられる機会に格差が生じるという受験生たちの懸念に対して「『身の丈』に合わせて頑張って」(萩生田光一文部科学大臣)などという言葉を、平気で口にすることができるのです。

しかし、今回のコロナ禍でも、親の経済状況が子どもの教育格差に直結することが社会問題化しています。経済的な理由で大学進学を断念したり、進学しても中退を余儀なくされたりする人も増えています。奨学金に頼らざるを得なくなり、大学卒業時点で多額の「借金」を抱えている人も少なくありません。子どもたちが十分な教育を受けられなければ、ひいては必ず国力の低下につながります。

私たちはこれからも「子どもは家庭が責任を持って育てる」考え方を続けていても良いのか。ここで真剣に考え直すべき時なのではないでしょうか。

子ども手当の仕組みには、実はもう一つ強調すべきことがあります。自民党が「バラマキ」を嫌う理由は、今説明したような「子どもは家庭で育てる」という価値観だけではありません。もう一つの隠れた理由が「既得権を失いたくない」ということなのです。自民党の政治家にとっての権力の源泉とは「公的な支出の対象を選択する」ことです。平たく言えば「あなたには私の裁量で給付金が出ることになりました」と言うことです。それが票や献金につながるというわけです。

しかし「子ども手当」のように、全員に一律に給付を行うと、政治や行政は誰も「特別扱い」することができなくなります。税金を誰にどれだけ配るかという裁量権が小さくなるわけです。これは、彼らにとっては面白くないことなのです。安倍政権はコロナ禍での特別定額給付金10万円について、当初は全国民に一律に給付することを嫌がりました。あれも同じ理由と言えます。自民党が野党の政策を「バラマキ」と批判し始めたら、その裏にどんな狙いがあるのか、少し立ち止まって考えてみてください。

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