・浜岡原発の停止要請
これもやや手前味噌な話になりますが、「原発ゼロ社会」への道筋をしっかりとつけたことも、民主党政権の大きな実績の一つです。

ご存じのように、私は総理大臣として2011年の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故に直面しました。この時の体験については「福島原発事故」特設ページをお読みいただければと思いますが、私は、あの事故に対峙した総理の責務として、エネルギー政策を根本から改革することを決意しました。

政府の「エネルギー基本計画」は、3年に1度改定されています。原発事故が発生した時点での最新の基本計画は、私が総理に就任した直後の2010年6月に閣議決定されたもので、この計画では「2030年に電源構成に占める原子力及び再生可能エネルギーの割合を約70%にする」ことがうたわれていました。少し分かりにくいかもしれませんが、つまりは実質的に原発の新増設を進め、少なくとも2030年までに14基以上を増設するというものでした。今から考えればとんでもない計画でした。

原発事故から20日が過ぎた2011年3月31日、私は「エネルギー基本計画を白紙に戻して見直す」と表明しました。さらに5月6日には、総理として中部電力に対し、東海地震によって被害を受ける危険性の高い浜岡原発の停止を要請しました。事故を起こしていない原発を、政治判断で停止させたのです。7月13日には記者会見で「原発に依存しない社会を目指す。将来は原発がなくてもやっていける社会を実現していく」と「脱原発依存宣言」をしました。これらは、長期にわたり電力会社ともたれあってきた自民党政権には、決してできない政策の大転換でした。

・原子力行政の改革
ここから私は、二つの観点から「脱原発依存社会」への道筋をつけていきました。

一つは原子力行政そのものの改革です。原発を規制し、再稼働を難しくするための改革と言ってもいいかもしれません。原発事故で明らかになったのは、原子力の安全を管理し規制すべき立場にある原子力安全・保安院が、原子力を推進する経産省の中にあることでした。保安院は原発事故対応において、ほとんど何の役割も果たすことができませんでした。

私は、保安院を組織として完全になくした上で、経産省とは切り離した「原子力規制改革委員会」を作ることにしました。こういった行政機構の改革には官僚は強い抵抗を示すものですが、過酷な原発事故の直後でもあり、さすがの経産省も、野党だった自民党も、反対することはできませんでした。原子力規制委員会と、その事務局である原子力規制庁の設置法は、私の後任の野田政権の時に成立しました。

野田政権下の2012年6月には「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」(原子炉等規制法)が改正され、原発は運転開始から40年が過ぎたら停止し、廃炉にする」ことが定められました。残念なことにこの半年後、民主党政権は下野し、第2次安倍政権が発足しました。すると経産省や電力会社は、この法律の例外規定に「1回に限り、20年を超えない期間の延長を認める」とあるのをいいことに、老朽原発の再稼働に乗り出しました。

民主党政権がもっと長く続いていれば、後戻りができないところまで脱原発に向けた法整備ができたのですが、中途半端なところで政権を失ってしまったのは残念でした。それでも、これらの原子力行政改革には意義がありました。原子力規制委員会は政治からの一定の独立性を保ち、自民党政権がもくろむペースでの再稼働は進んでいません。原発事故から今日までの10年間で、日本で使われている全電力のうち、原発の比率はわずか約3%にまで下がっています。

・再生可能エネルギーの普及に向けて
単純に原発の比率を減らすだけではいけません。原発が減った分が火力発電などに置き換われば、大量の温室効果ガスが排出され、地球温暖化につながってしまいます。脱原発を進めるには、太陽光や風力など再生可能エネルギーの普及は急務です。

民主党政権はマニフェスト(政権公約)で、再生可能エネルギーで作った電気を電力会社が決まった価格で購入する「再生可能エネルギー固定価格買い取り制度」の創設をうたっていました。電力会社に再生可能エネルギーの全量買い取りを義務化する法律(再生可能エネルギー特別措置法、FIT法)は、偶然にも東日本大震災と東電福島第1原発事故が発生した2011年3月11日に閣議決定され、国会に提出されていました。

この「固定価格買い取り制度」ができれば、東電などの電力会社は、太陽光発電や風力発電を行う会社が発電した電力を、一定の価格で買い取らなければならなくなります。この「一定の価格」を高めに設定すれば、太陽光発電や風力発電の事業で利益を出せるように也、多くの事業者が参入してくれ、再生可能エネルギーの普及につながる、というわけです。

私は野党が菅内閣に対する不信任決議案を提出したことなどもあり、震災と原発事故の対応に「一定のめど」がついたら退陣することを表明していました。そこで、この固定価格買い取り制度の法案の成立を「退陣の3条件」の一つに挙げ、早期に成立させることができました。

固定価格買い取り制度は翌2012年に始まりました。その後の再生可能エネルギー発電は、太陽光を中心に飛躍的に拡大しました。制度導入前は、再エネというと水力が全体の10%、それ以外の太陽光や地熱などは、合計で1%程度に過ぎなかったのですが、現在では水力以外が約10%に伸び、全体で約20%に達しています。3%に過ぎない原子力とは、すでに大きな差が開いています。

立憲民主党の枝野幸男代表が「原発ゼロはリアリズムだ」と語っているのは、つまりこういうことです。原発ゼロはもう「勝負あった」のです。「原発ゼロ」社会に向けてこれだけの歩みを進めることができたのは、民主党政権時代に打った数々の布石が実を結んだ結果だということを、ぜひ理解してください。この流れは原発推進の自民党政権をもってしても、もはや簡単には変えられないのです。

このことに関しては、私が今年出版したもう一つの著書『原発ゼロ10年目の真実 始動した再エネ水素社会』(幻冬舎)に詳しく書いてあります。興味のある方は、こちらの本もぜひお手に取ってみてください。 Amazonのページ

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