なぜ東電本店に乗り込んだか(3月15日)
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3月15日3時頃に海江田・枝野両大臣から「清水社長が原発からの撤退を申し出ている」と伝えられました。撤退すれば大量の放射性物質が拡散して東日本は壊滅します。
私は4時過ぎに呼んだ社長に「撤退なんてあり得ませんよ」と告げ、「統合対策本部を作りたい」「すぐ本店に行きたい」と求めたのです。
福島原発事故は、発生から4日後の3月14日、極めて深刻な状況に陥りました。1号機に続き、3号機でも水素爆発が発生。その結果、2号機でも注水による原子炉の冷却ができなくなりました。さらに、定期点検で停止していた4号機でも、使用済み核燃料プールの温度が上昇していました。まさに「負の連鎖」の恐怖です。後で分かったことですが、この日18時過ぎには燃料棒の損傷が始まっていました。
私が原発の現地視察を行って以降、官邸と、原発の現場にいる吉田昌郎所長とは、直接電話で連絡を取ることが可能になっていました。吉田所長はこのころ、官邸側で窓口となっていた細野豪志首相補佐官のもとに、一度だけ「これは駄目かもしれない」と伝えてきたそうです。細野補佐官から報告を聞いた時は、私も言葉を失いましたが、その後2号機への注水が可能になり、吉田所長は「まだやれます。しかし、武器が足りない」と伝えてきました。
現場の士気はまだ高かったのです。その点について全く異論はありません。しかし、東電本店の中では、現場とは全く違う動きが始まっていました。
翌15日3時ごろ、執務室奥の応接室のソファーで仮眠をとっていた私は、突然秘書官に起こされました。海江田万里経済産業相が来ていると言うのです。私はすぐに起きて、執務室へ入りました。
執務室にいたのは海江田大臣だけではありませんでした。枝野幸男官房長官、福山哲郎官房副長官、細野補佐官、寺田学首相補佐官たちがそろっていたと記憶しています。
重苦しい雰囲気でした。震災の発生後はずっと重苦しい空気でしたが、この時が最も沈鬱な空気が流れていたように思います。海江田大臣が切り出しました。
「東電が原発事故現場から撤退を申し入れてきていますが、どうしましょう。原発は非常に厳しい状況にあります」
後で分かったことですが、東電本店では当時、福島第一原発の要員の大半を第二原発に避難させる計画が、清水正孝社長を含む幹部間で話し合われていました。これは、公開された東電のテレビ会議記録にも残っています。
清水社長は海江田大臣と枝野長官に何度も、直接電話してきたそうです。両大臣は清水社長の話の内容から「会社としての撤退の意思表示」と受け止めました。
14日夜の段階では、海江田大臣や枝野長官も東電の要請を断っていました。しかし、日付が15日になり、事態がますます深刻になってくると「撤退はやむを得ないのではないか」という考えも出ていたようです。
どちらにしても重すぎる決断でした。そして海江田大臣らは「総理の判断を仰ごう」と、執務室にやってきたのです。
後に公表された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の報告書では、当時東電側に原発からの撤退の意思はなく、それは菅首相の誤解であったとされています。
しかし、私は首相です。自らの内閣でともに事故対応にあたる2人の大臣が「撤退の申し出」と受け止めた以上、2人の報告を信頼し、その報告を前提に判断するのは当然のことではないでしょうか。
私に報告に来た時、海江田大臣は明言こそしませんでしたが、もはや撤退やむなしではないか、と考えているように感じました。
しかし、それが許される状況ではありませんでした。もし、東電の作業員たちが避難してしまえば、無人と化した原発から大量の放射性物質が出続け、やがては東京にまで到達するでしょう。
一時的に撤退して戦列を立て直し、再び戦うという作戦をとれば、放射性物質の放出で線量が上昇し、原子炉に近づくことは一層危険で困難になります。事故が収束できず、首都圏まで避難区域が拡大すれば、東日本の全滅につながり、日本という国家の存続が危うくなります。私はそう認識していました。
大げさではなく、日本は放射能という見えない敵に占領されようとしていたのです。戦争と違うのは、「敵」は外から攻めてきたのではない、ということです。原発は日本が自分たちで生んだものです。逃げるわけにはいきません。
何としても事故を収束させなければならない。そのためには人命の損失も覚悟しなければならない。私はその場でこのように答えました。
「撤退したらどうなるか分かって言っているのか。1号機、2号機、3号機、全部やられるぞ。燃料プールだってあるんだ。そのままにして撤退したら、福島、東北だけじゃない、東日本全体がやられるぞ。厳しいが、やってもらうしかない」
私は、何としても東電を撤退させないための行動をとったのです。「撤退はあり得ない」という私の言葉に、海江田大臣たちも頷いてくれました。
私は東電の清水社長をすぐに呼ぶように指示しました。「東電本店に行こうと思う。政府と東電との統合対策本部を作る。細野君に東電へ常駐してもらう」と告げました。
実は、統合対策本部の構想は前日あたりから考えていました。現場の状況を正確に把握し、意思決定をスピードアップするという実務的な理由もありましたが、それ以上に「政府と東電が一体で事故収束にあたる」ことを明確にさせたいと考えたのです。
東電は、吉田所長をはじめ現場は強い危機感を持っていましたが、本店には、この事故が国家的危機であるという緊張感が薄いと感じていました。民間会社の東電が、政治家や官僚とおなじように「国家の命運を背負う」という意識を持つのは難しかったのかもしれませんが、もはやそれでは困るのです。東電の意識を「国家の危機に政府と一体となって対処する」に変えさせなければいけませんでした。
清水社長は4時過ぎに官邸にやってきました。私はまず「撤退なんてあり得ませんよ」と告げました。清水社長は「はい、分かりました」とあっさりと答えました。あまりにもすぐに「はい」と言ったので、私は少し拍子抜けしました。
私は「統合対策本部を作り、細野補佐官を常駐させたい。部屋と机を用意してください」と告げました。社長はまた「はい、分かりました」と言いました。「これからすぐにそちらの本店に行きたいので準備をしてください」と告げ、何時間で準備ができるかと聞くと「2時間」と答えたので「もっと早く、5時半に行く」と言いました。
5時26分に官邸を出発。官邸の外へ出るのは、12日早朝にヘリで原発と被災地を視察に行って以来でした。5時半過ぎに内幸町の東電本店に着きました。
対策本部は2階にありました。驚いたのは、オペレーションルームにはモニターがいくつも並んでおり、その一つが福島第一原発とつながっていたことです。
リアルタイムで吉田所長と話せるシステムがあり、原発内の様子もある程度分かる仕組みでした。それなのに、なぜ現場の様子が官邸に伝わらなかったのか、不思議でした。
私は東電の勝俣恒久会長、清水社長以下、社員を前に訴えました。
「今回の事故の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。これは2号機だけの話ではない。2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機、さらには福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何か月後かには、すべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの2倍から3倍のものが10基、20基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。
何としても、命懸けで、この状況を抑え込まない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。そんなことをすれば、外国が『自分たちがやる』と言い出しかねない。皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達は遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のこととともに、10時間先、1日先、1週間先を読み、行動することが大切だ。
金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現地へ行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる。」
政府が民間企業に乗り込んで指示することは、一般的にはありません。しかし、原子力災害対策特別措置法(原災法)を厳密に読めば、本部長である首相には、事業者に対して指示をする権限も与えられています。事故が発生した11日には、すでに「原子力緊急事態宣言」が発せられていました。
法律にあるからといって、これほどの強権を簡単に行使していいとは思いません。私も、早い段階からこうした権限の行使を考えていたわけではありません。
しかし「東電が原発からの撤退を検討している」という問題が起き、考えが変わりました。政府と東電の意思決定を統一しておかなければ大変なことになると痛感し、統合本部の設置を提案したのです。
統合対策本部は、官邸ではなく東電本店に置きました。私が本部長、海江田大臣と清水社長には副本部長になってもらいました。そして、細野補佐官に事務局長として東電に常駐してもらうことにしました。これ以降、官邸と東電の連絡はスムーズに進むようになり、事故対応にもよい影響をもたらしたと考えています。
東電の原発からの撤退を止めることは、私の人生における最大の決断でした。