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東電が申し出た格納容器のベントが実行されず、東電担当者が理由を即答できないなど、現場の様子が分からなかったからです。
吉田所長は「停電で手動ベントのため高線量で作業に時間がかかる」と述べ、「決死隊を作ってやります」と答えました。
現場を仕切る人物を見極められたのは最大の収穫でした。

震災発生翌日の3月12日早朝、私は福島原発の状況を自分の目で確認するため、自衛隊のヘリで現地に視察に向かいました。この行動について現在でも「菅総理の視察が現場を混乱させた」との批判があります。当時の状況について説明したいと思います。

震災の発生は3月11日14時46分。原発は地震による津波の被害を受け、非常用のディーゼル発電機が使えなくなりました。原子炉を冷却して炉心溶融(メルトダウン)を防ぐための全電源を喪失し、原子炉内の圧力が異常に上昇しました。経済産業省の原子力安全・保安院はこの日深夜「翌日の12日未明には、2号機でメルトダウンが起きる可能性がある」との予測を官邸に報告してきました。

官邸に詰めていた東京電力の責任者は、原発の格納容器の弁を開放して中の水蒸気を逃がし、圧力を下げる「ベント」という作業を行いたいと、私たちに申し出てきました。ベントを行えば、放射性物質を人為的に外界に放出することになります。過去に一度も行われたことがない措置でしたが、もし格納容器が爆発すれば、膨大な量の放射性物質が広範囲に飛び散ることになり、被害は計り知れません。保安院の幹部や、班目春樹原子力安全委員長も「早くベントをやるべきだ」との認識で一致しました。
官邸は12日1時30分、海江田万里経済産業相名で正式にベントの指示を出しました。この時点ですでに、原発から半径3キロ圏内からの住民への避難指示が出ていました。

私は「ベントをすれば爆発は回避できる。ベントで時間を稼いでいる間に電源車が稼働すれば、冷却機能が復旧し、最悪の事態は回避できる」と考えていました。官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローに「どれくらいの時間でベントができるのか」と尋ねると、武黒フェローは「準備に2時間ほどかかる」と答えました。「午前3時ごろにはベントができるのだな」と認識しました。
ところが、そのベントが始まったという報告が来ません。東電は「やる」と言っているのに、なぜやっていないのか。その理由を聞いても即答できず、回答が来るまでに時間がかかりました。さらに、その回答に対して再質問しても、やはり即答できません。

とにかく、震災直後から、私のもとへは確かな情報がほとんど来ませんでした。現場の様子が分かりません。原発の現場から東電本店、本店から保安院、保安院から官邸、あるいは本店から官邸にいた東電の社員といった形で「伝言ゲーム」が行われていたのです。その伝言が正確であればまだいいのですが、どこかの段階で重要なことが抜け落ちていたり、故意ではないにしろ、歪んで伝えられている可能性もありました。官邸の指示が現場で対応にあたっている人たちに本当に伝わっているのか、それさえ分からなかったのです。

物事を判断するには、指示がしっかり当事者に伝わることが大切です。現地の責任者と直接話をしなければならない。そう強く思いました。それで、短時間でも現地に行こうと決めたのです。

現地視察には、官邸スタッフの間でも慎重意見がありました。特に、枝野幸男官房長官が「後で政治的に批判される」と反対したのを記憶しています。枝野長官は私の評判が落ちることを心配してくれたのでしょう。しかし、私は自分の評判がどうなろうと、現場へ行ってこの目と耳とで状況を把握する必要があると考え、視察を決断しました。枝野長官も「分かりました。視察中のことは私が責任を持ちます」と同意してくれました。

視察のもう一つのリスクは、私自身が被ばくする可能性があることでした。視察中に原子炉が爆発すれば、政府の事故対応に大きな影響を及ぼす可能性もゼロではないからです。しかし、私はこの時点では、急性被ばくで総理としての仕事に支障が出るような事態にはならないだろうと考えていました。

12日6時14分、私は班目委員長らとともに、官邸の屋上から自衛隊のヘリ「スーパーピューマ」で原発に向けて出発しました。ベントの開始が遅れていたため、原発の爆発の危険性も考慮すべきだと考え、出発前に住民の避難指示の範囲を「半径10キロ以内」に広げました。

約1時間後の7時12分、ヘリは原発に到着しました。原発に向かうバスで隣に座った東電の武藤栄副社長に「なぜベントができないのか」と質問しましたが、口ごもるだけなので、私はつい声を荒らげてしまいました。

私はこの時点で、この事故は国家存亡の危機になるという認識を抱いていました。危機を回避できるかどうかはベントにかかっている、と思っていました。私はこの時、ベントができないことを責めたかったのではありません。できないならば、その理由を説明してくれれば良かったのです。それなのに、責任者の副社長が煮え切らず、はっきりしたことを何も言わないので、声が大きくなってしまいました。

免震重要棟に着くと、そこはもう戦場のようでした。廊下では、床に寝ている作業員が何人もいて、人ひとりが通れるほどのスペースしかありませんでした。過酷な環境のもとでの作業が、夜を徹して行われたことがうかがえました。事故にしっかり対応することと、作業にあたる人の安全性の両立を、常に考えておく必要を強く感じました。

2階の会議室には大きなモニターとテーブルがあり、テーブルには原発の地図がありました。私はそこで初めて、吉田昌郎所長と対面したのです。

吉田所長は、私がこれまで官邸で接してきた東電の社員とは全く違うタイプの人間でした。自分の言葉で状況を説明してくれました。

「電動でのベントはあと4時間ほどかかります。手動でやるかどうかを1時間後までには決定したい」という話でした。

しかし、ベントは3時ごろに行われるはずでした。その時刻からすでに4時間が過ぎているのに、そこからさらに4時間も待て、というのはどういうことか。そもそも「ベントが必要だ」と言ってきたのは東電の方じゃなかったのか。格納容器爆発の可能性は大きくなっています。私は言いました。

「そんなに待てない。早くやってくれないか」

吉田所長は「決死隊を作ってやります」と答えました。口ごもるだけの武藤副社長とは全く違いました。

官邸にいた時は、現場から私に情報が伝わるまで何人もの人間が介在し、誰が現場で責任をもって判断しているのかも分かりませんでした。すべてが匿名性の中で行われていたのですが、吉田所長と会って「やっと『匿名で語らない』人間と話ができた」と思えたのです。

視察の最大の収穫は、現場を仕切っている吉田所長がどのような人物なのかが分かったことでした。

現場にいたのは1時間弱でした。8時5分に福島原発を離陸した私は、その後、上空から宮城と岩手の被災地を視察しました。海岸沿いは海と陸の区別がつかない状況でした。360度の視界で自分の目で見たことで、被害のすさまじさを認識しました。

今回の震災の被害のほとんどが津波によるものだと認識した私は、改めて最大限の救援が必要だと考え、官邸へ戻ると北澤俊美防衛相に自衛隊5万人の出動を指示し、さらに無理を承知で「さらに人員を増やしてくれ」と頼みました。北澤防衛相は防衛省幹部と協議し、翌13日には「最大限可能な数」として10万人を動員して救援活動にあたることを決定してくれました。

災害時に総理大臣がどの段階で現地へ行くかについては、常に議論があります。何日も経ってから行けば「今ごろ何しに来た」と批判されますし、すぐに行っても「現場が混乱している時に総理が行くとさらに混乱する」と批判されます。危機の際に指揮官が陣頭指揮を執るべきか、どっしりと座って部下に任せるべきかは、意見が分かれるところだと思います。実際、枝野長官の危惧した通り、この現地視察は後に国会でも批判されました。

しかし、私は今でも、この時の視察は正しい判断だったと確信しています。現場の責任者の吉田所長に会い、現場と本店の意思疎通の悪さを感じたことは、15日に東電本店に乗り込み、政府と東電の統合対策本部を設置する判断につながりました。また、町や村の役場そのものが被災し、被災地からの情報も十分に得られなかったなか、上空からとはいえ津波被害の規模を実感できたことも、その後の対応に非常に有益だったのです。

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